「約束」
古びた城の一角に、大人たちの憩いの場がある。
戦いが続くなかで、一日を生き延びた者達が命の水を求めて、黄昏どきになると自然と集い始めるのだ。
カラヤ出身のアンヌが経営するビュッデヒュッケ城で唯一の酒場には、彼女自身が酒を嗜むこともあって、酒好きの様々な嗜好に応えた品揃えがされていると専らの評判だった。
城の一角にある酒場は古臭くうらびれた雰囲気を醸し出していて、人の熱気でむっとする店内には酒の匂いと、煙草の煙と、賑やかな話し声がいつも充満している。
いかつい男達が騒がしくジョッキやグラスを掲げて騒ぐ中に、時折女性の姿もあった。
経営者が女性ということもあり、彼女を話し相手にカウンターで酒を楽しむ、少数だが、常連の女たちである。
その中の一人に、クイーンも名を連ねていた。
珍しく、ゲドがデュークを連れて周辺の偵察に出かけていて、留守を任されたクイーンはたまには一人酒を楽しもうと、その晩、アンヌの酒場にやってきたのだった。
早くも酔い始めているテーブル席の騎士達を避けてカウンター席に腰を落ち着けたクイーンは、アンヌにいつもの酒を頼み、ほっと息をついて頬杖をついた。
明け方早くに出発したゲドをベッドの中から見送って、それからは武器の手入れや補給など、結構忙しく立ち働いていたので、心地良い疲労感があった。
そう遠くまで出かけるとは聞いていないので、いずれゲド達も城に帰還して、この酒場にやってくるだろう。それまでは、一人で静かにやるつもりだった。
しかし、その計画は早くも崩れそうだった。
酒場の入り口に何気なく目をやったクイーンは、そこから中に入ってきた人物を目に留めて、露骨に顔をしかめた。
豊かな胸をこれみよがしに露出している嫌味女がそこにいた。
幸運にも、向こうは店内の混雑に紛れてまだこちらに気付いていない。
今日は静かに飲みたい気分だった。クイーンは女と目が合う前に視線を逸らし、ちょうどアンヌが運んできたジョッキに手を伸ばした。
が、視界の端で向こうがこちらに気付いたのを感じてしまった。
しかも、まっすぐこちらに向かって歩いてくる。
舌打ちして腹の中で戦闘準備を整えながら、クイーンは表面上は何事もないかのようにジョッキのビールを口に含んだ。
「はあい、クイーン」
「……何だ、エレーンかい」
鼻にかかった甘ったるい声で、エレーンが声を掛けてきて、やっと始めて気付いたかのように、クイーンはちらりと目を向けた。
胸の谷間を強調するように腕を組んでいるエレーンは、これまた珍しい事に、いつもの如く噛み付いてこようとはしなかった。
「ふふ、お互いに待ち人があるようだし、たまには一緒にやるのも悪くないかもね。どうだい?」
「あいにくと、今日は一人でやりたい気分なんだよ」
すげなくクイーンは断った。
「つれないね」
「つれなくて結構」
そこまで言いかけて、クイーンは胸の下で組まれたエレーンの指先に何か小さい輝きがある事に気付いた。
クイーンの視線に目敏く気付いて、エレーンがすいと左手を差し出した。
「ふふふ……、いいだろう?本物だよ」
エレーンの細い左の薬指に輝いていたのは、透明な石が嵌め込まれた銀の指輪だった。
女なら、その意味に瞬時に合点が行く。
クイーンは眉を顰めて、エレーンの顔を見上げた。
クイーンも渋々ながら認める、造作の整ったエレーンの顔には、誇らしげな表情がある。
「……いつだい?」
「貰ったのは、昨日の晩だよ」
なるほど、とクイーンは思った。エレーンはこの自慢話をしたいに違いない。
「……隣は空いてるようだね。あんたが座るのは勝手だよ」
「じゃ、そうするわ」
相変わらず気は乗らなかったが、ゲドが帰ってくるまでの暇つぶしと思い、クイーンはエレーンに付き合ってやる事にした。
エレーンのジョッキが運ばれてきて、二人は儀礼的に互いのジョッキを合わせた。
一口を飲み干して杯を置くと、クイーンは指輪を見つめて微笑しているエレーンを横目で見た。
「で?相手は、当然あんたの隊長殿だろう?」
「他の男に貰ったのは、全部返しちゃったからね」
「……売ったの間違いだろ、どうせ。大方、鑑定屋に持ち込んで値を吊り上げて売りさばいちまったんだろ?」
自分のジョッキをしかめっ面で見つめて、クイーンはそう断じた。が、エレーンは特に否定することもなく、悠然と微笑んだ。
「さあ?」
「デュークはお気の毒様だね。自分の女房になる女がこんな性悪で」
「愛し合ってるから問題ないよ」
さらりとエレーンは言い、ビールを口元に運んだ。
「この戦が終わって、カレリアに帰ったら、式を挙げるつもりさ。出たければ、出席してもいいよ」
「それまでにあんたたちが全滅してなきゃ、考えてみるよ」
「こっちより、自分の小隊の心配でもしてなさいよ。あんな年端もいかない子供が二人もついていて、まともに戦えるのか、不思議でしょうがないね」
「少なくとも、そのご立派なモノ以外に特技のないあんたよりは、何倍も戦力になるよ、エレーン」
先刻からエレーンに色目を使っている酔っ払いの男どもを煩げに一瞥して、クイーンは不機嫌にそう言った。
エレーンはそれぐらいでは動じない。
「特技はないよりあるほうが何倍もましさ」
やはり、エレーンと飲む事にしたのは間違いだった。とっくに後悔しつつ、席を変えるべきか自室に引き上げるか、クイーンが思案していると、エレーンはまた指輪に目を落とした。
おや、とクイーンはエレーンの表情に惹きつけられた。満ち足りた、柔らかく穏やかな微笑がエレーンの唇に浮かんでいた。
クイーンは小さく息を吐き、椅子に掛け直した。
今日ばかりは、仕方ないようだ。
「デュークのことだから、ストレートにプロポーズしてきたんだろう?」
話を振ってやると、エレーンはその意図に気付いたようだったが、素直に嬉しそうな表情になって、身を乗り出してきた。
「そうなんだよ、これをバラの花束と一緒に差し出してきて、『結婚してくれ』。どこのボンクラから聞きかじったんだか知らないけど、ありきたりで、ひねりもないプロポーズの仕方だと思わないかい?」
「……そういいながら、顔がにやけてるようだけど」
エレーンは自分の頬に手をあて、笑みをこぼした。
「我ながらどうかしてると思うんだけど、あの愚直なとこに惚れちまったんだよねえ」
「はいはい」
エレーンは指輪を丁寧に撫でている。
「家庭に落ち着くなんて、あたしには到底無理だけどね。デュークと結婚の約束をするんだと思ったら、それもいいかなと思ってさ」
「そう思うんなら、せいぜい破らないように気をつけるんだね」
クイーンがちくりと言うと、エレーンは笑みに妖しさを加えた。
「ゲドも、結構良い男だよねえ。無口だけど、ああいうのは肝心なときに決めてくれるからさ、そのギャップがいいんだよね」
思わずクイーンがむっとした顔をすると、エレーンは急に顔を近づけてきて、小声で囁いた。
「意外とあっちの方も強いだろ?」
「あんたの男よりは、強いかもね」
「へえ、そりゃ是非試してみたいね」
「あれはあたしの男だから、譲る気はないよ」
クイーンが口の端を上げて笑んだ。エレーンは肩をすくめ、ジョッキに残ったビールを飲み干して、アンヌに二杯目を注文した。
エレーンの二杯目が運ばれてくるまでの間、クイーンは何とはなしにエレーンの指輪を眺めやっていた。
羨ましくないといったら、嘘になる。
絆の証が形として欲しいときもあった。
だが、クイーンはゲドにそれを求めたことはなかった。
ゲドはクイーンを愛するとき、その孤独を埋める様に求めてきたが、どこかで躊躇いも捨てきっていなかった。
クイーンの肌に触れるとき、未だに壊れ物を扱うようにしてくる。
己が背負うものに、クイーンを巻き込む事を恐れているのだと、クイーンは感じ取っていた。
ゲドがその迷いを捨てる覚悟ができなければ、クイーンもまた、ゲドに先の約束を求めることはできなかった。
クイーンにできるのは、今、ゲドの傍を離れないことだけだった。
酒場の入り口が一層騒がしくなった。クイーンのエレーンがそれに気付いて揃って顔を向けると、ゲドとデュークが連れ立って酒場に入ってきたところだった。例によって、またデュークが何事かを怒鳴りながら、ゲドに掴みかからん勢いである。
「デューク、お帰り」
すぐにエレーンが席を立ち、デュークの傍に寄っていった。デュークもそれに気付き、ぐっと雰囲気を和らげてエレーンの接吻を受けている。
その隙に、ゲドがデュークの傍を離れてクイーンのほうにやってきた。クイーンは椅子に腰をおろしたままジョッキを軽くあげてみせた。
「意外と手間取ったね、ゲド」
「あいつが噛み付いてきて、ろくに偵察が進まなかった」
眉をしかめて、ゲドが溜め息をつく。クイーンに差し出されたジョッキを受け取り、中のビールを口に流し込んだ。
回りの冷やかしを受けるほど熱い抱擁を交わしていたエレーンが、一旦デュークのもとを離れて、クイーンの近くにきた。
「じゃあね、クイーン」
「ああ、さっさといきな。今夜はあたしの奢りにしておくよ」
「あら、ごちそうさま」
「それはこっちの台詞だよ」
もう行け、と手を振ったクイーンに上機嫌で笑いかけ、エレーンは素早い動作でクイーンに耳打ちしてから、デュークのもとに戻り、二人は酒場を出て行った。
先刻エレーンが注文したビールが運ばれてきた。クイーンはそれを受け取ると、ゲドの前に置き、座るように勧めた。
ゲドはエレーンが座っていた椅子に腰を下ろし、一気にビールを飲み干した。
「その様子じゃ、相当参ったみたいだね」
「まあな」
クイーンはエレーンに耳打ちされた言葉を胸の内で反芻しながら、ゲドの横顔を見つめた。
その視線に気付いて、ゲドがクイーンの顔を見つめる。
「……何だ?」
「別に?」
ゲドは、エレーンの指にあった指輪に気付いていない。何故クイーンがエレーンに付き合っていたのか、その理由に気付いていないようだった。
『いい男は逃がさないようにね』
エレーンはそうクイーンに囁きかけたのだった。
余計なお世話、とクイーンは胸中で言い返した。
言われなくてもそのつもりだ。
目に見える約束を交わさなくても、クイーンはゲドの傍を離れないと決めていた。
自分の指を見下ろしたクイーンは、思いついてゲドの手を取った。
「おい……」
「ちょっと約束しようか、ゲド」
男の小指に、自分の小指を絡める。
「……何だ」
「ふふ……」
怪訝そうな男の顔を見て、クイーンは笑みをこぼしながら、その指を上下に振った。
他の誰にも聞こえない声で、ゲドにだけ囁きかける。
「これからも、あんたについていくよ」
ゲドは、なんともいえない表情でクイーンを見返した。
「……何かあったのか?」
「ちょっとそうしたかっただけさ」
そうやって、指輪の代わりに誓いを指に絡ませて。
クイーンは微笑してゲドの手を離し、自分もジョッキを持ち上げた。
「今夜はのんびりやろうよ、ゲド。あんたが知らないことも、色々話してあげるからさ」
次の杯で、二人でデュークとエレーンの婚約を祝してやってもいい。
――今夜も、アンヌの酒場は酒を愛する人々で遅くまで賑わいそうだった。
